とある日、オモチャのBOXを棚に戻そうとした子がいたのですが、重たくてできないという場面がありました。


するとその子は「◯◯〜、やって〜」とお友達にお願いをしました。


頼まれた子は「わかった!いいよ!」と言って一所懸命に重たいオモチャ入れを棚に戻そうとしてくれました。


重たいのでなかなか上手くできずにいると、棚に戻しやすいようにと頼んだ子が物をどけてくれて、無事に戻すことができました。


次に積み木も重たくて自分では戻せなかった子が「◯◯〜これもして〜」とお願いをしたところ、


頼まれた子は「わかった!やってみる!」と挑戦をしました。


しかし、こちらはもっと重たくて、さずがに頼まれた子も「できない、△△(頼んできた子の名前)がして」と手放しました。


しばらく「◯◯がして」「△△がやって」「◯◯!」「△△!」と繰り返した後、


最初に頼まれた△△が渾身の一撃で積み木を持ち上げて、棚に戻すことができました。


すると初めに頼んだ子(◯◯)が何度も「△△ありがとね、ありがとね」と御礼を伝えていて、


私たち大人にも「△△が積み木もどしてくれたのー」と報告をしてくれました。


これは、2歳ちょっとと3歳の子が起こした行動です。


大人は「協調性を育む為には大人が子どもに言葉で教えなければならない」と思いがちになるし、


「ありがとうは?」と言葉を促して感謝を教えようするなど「大人が何かをしなければ子どもは気持ちを育めない」と思うけれど、


協力したいという気持ちも、ありがとうと思う気持ちも勝手に「芽生える」ものだから、


子ども同士に委ねる環境があれば、「自分たちのペースで心を通わすことができる」ので、こんな風に協調性や思いやる気持ちや感謝の心はちゃんと芽生えていくのですよね。


というか、社会的動物であるヒトはこれらの感覚を持つことでより生きやすくなることを知っているから、身につけようと積極的に動くものなのです。


※自分を犠牲にして人の為にと動くことを指しているのではありません〜


その為には、「大人は直ぐに何とかしてくれない」という環境作りが大事だったりします。


なぜなら、子ども同士で深く関わり合える環境が作れると、(もしくは、自分自身と向き合える環境)、


大人に教えてもらうことをしなくても自ら気が付き、学び、心を育むという「自発的な」学びができるので、


自分を「主体にした」行動を起こすことができるからです。


自分が主体にあれば、自分に芽生えた感情や感覚を「そのまま」肯定することができるので、


自然に「ありがとう」や「ごめんなさい」などと芽生えた気持ちを言葉にすることができます。


なので実は「ありがとうは?」「お礼を言いなさい」という声掛けは子どもの自発的な動きを止める言葉掛けなのです。


もし教えてあげたいと思うなら、こういう気持ちになった時には「ありがとう」と言葉にするといいよ、


「ごめんなさい」と言う言葉は、こう言う気持ちの時に伝えるといいよ、などとリアルタイムで伝えてあげると良いです。


思いやりも協調性も感謝の心も、その子の心に芽生えるものだから、その子自身が体感していくこと以外に教える術はありません。


例え「ありがとう」「ごめんなさい」と言えても、心が育っていなければ意味はないのです。




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