こちらに書いた「我が子を誰かや標準と比べないこと」は


参考記事


実際には簡単ではないかもしれません。


私も息子が小学校に入学したての頃に、「周り」と「息子」を比べたことがあります。


それまでは特に標準や誰かと比較をしてダメなところを見つける視点はなかったのですが、小学校という場に所属した瞬間に「比べる」という意識が湧いてきました。


これって、なぜかと言うと


同じ歳の子が集まり、一斉教育をされる「場」に行き、「標準に合うこと」を求められるようになったからなのですよね。


息子の例でいうと


それまで息子は異年齢の中で育ち、一斉保育や教育ではなく個を最も尊重した場にいたので、


親の私も比べる対象を持たずに息子らしさを最大に認めてくることができました。


例え誰かに比べることを求められたとしても、子どもの個を最も尊重する環境の方が強く存在していたので、その意識が自然と勝っていました。


比べる必要性がない環境では、意識は薄くても成り立つことだったのです。


そう、どんな環境にいるのかってとても大事なことなのです。


日本の幼稚園や公立の小学校の多くは


同じ歳の子が集まり、一斉教育をされる場であり、標準に合うことを求められます。


その中にいたら、自分が強く意識をしていなければ自然と周りと我が子を比べてしまったり、


あるいは「流される」っていうことが起こり得るのです。


何か嫌だし違うと思っていても「しょうがない」に勝てない時もあります。


身を置く環境でこんな簡単に変わってしまうこと、


だからこそ


「意識」することが大事になります。


「自分は本当はどうしたいのか」を知ることが、我が子を何かと比較しないことに繋がるのです。


もし、我が子を誰かと比較したり標準と比べたりして落ち込む(悪い気分になる)ようであれば、自分のしているその行為は正しいことではないし、


子どもに対して怒りたくなったり、存在を否定したくなった場合は子どもにとっても良いことではないのですよね。


良いことが1つもないならば、比べるという行為は必要なくなります。


それは分かっているけれど、なぜか「できない」という場合は、


自分の中に「なにか」があるのですよね。


自分が親にキチンとを求められて育ってきたり


できることを求められてきたり


だけどできない自分がいて、そんな自分を責めていたり


周りと違う自分を恥ずかしいと思っていたり


標準に合わないと幸せになれないと思っていたり


何かをできることで幸せを計っていたり


できないことを個性ではなく「劣等」だと思っていたり


我が子の育ち具合いを自分のせいだと思っていたり


または、自分のせいにされるのが恐かったり


周りを気にしているのは「自分」だったり・・


単に疲れていて思考が停止している状態の時もあると思います。


どんなことにせよ、自分の中にある思いが行動に出ているので、


先ずはその思いを見つけてあげることが大事になります。


そして、どんな思いがあるのかが見つかったら、否定しないで認めてあげることが次のステップとなります。


問題とは、子どもではなく自分の中にあるものだから、解決も自分でできるのですよね。


我が子を誰かと比較したくないけれど、ついしてしまうとか


比較した後に自分を責めてしまうとか


辛い気持ちになるのなら、一度自分と向き合うことが必要なんだと思います。


私も息子を他と比較した時は、とにかく自分の中にどんな思いがあるのかを見つけるようにしています。


そして、一斉教育の場である小学校に身を置いているので、それはそれとして受け止め、違う場を増やすことをしています。


例えば、みんなできて当たり前というスポーツや塾などを習い事にせず(子ども自身が習いたい!通いたい!と主体を持った場合は異なります)


週末に本人が興味を持ったことをさせてあげるようにしています。(息子は今は釣りのようです)


本人が好きなことって、比較の対象が見つからないのですよね。なぜなら、「好き」っていう思いは他人と比べることができないから。


そうやって、比べなくていい環境を増やしていっています。


人と比べることが嫌だと思っているけれど、ついしてしまうという方がいたら参考にしてみてください。







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